飯田 和則さん

1975年卒業の飯田和則と申します。

コロナ禍で先の見えない学生生活を送っている現役の皆さん、今は社会人として活躍している後輩諸君に私の経験談が少しでもお役に立てればと思い、寄稿することにしました。卒業から50年近くも経過し、昨年6月末で長かった社会人生活に終止符を打った今、こうして自分を振り返ることはとても意味のあることだと考え、筆を執った次第です。時代が大きく変わり(言葉では言い表せないほどの変化)、今もコロナ禍、ロシアのウクライナ侵攻等、政治・社会経済が激変する荒波の中、皆さんには、それらを乗り越えて自分の夢や希望そして大きな目標に向かって邁進してもらいたいと心から願っています。

MESS時代はディスカッションのチーフ、本当に明治大学卒業というよりESSを無事に卒業出来たという言い方がピッタリの生活を送りました。高校時代から海外、特にアメリカへの憧れが強くあり、将来は海外に関わる仕事をしたいと思っていたので、入学時に先輩から勧誘されたESSへの入部は必然であったように思います。そして何よりも、先輩、後輩、同期の仲間と過ごした4年間は濃密であり、かけがえのない経験だったと思っています。卒業後、47年間も過ぎ去った今でも、夏合宿、ディベート、スピーチコンテスト、そして関西遠征と自分から積極的に参加した部活で良い思い出を沢山作れたことは私の財産です。苦しい時や投げやりになった時期もありましたが、特に同期の仲間の支えは一生の宝であり、卒業後の今でもその思いは変わりません。又、在学中は明治大学の繋がりから米国CBSニュース東京支局で2年間夜勤のアルバイトを経験した事も米国への親近感が増し、英語のブラッシュアップにも繋がったものと思います。当時は、英語⇒海外生活(アメリカ)という夢を叶えたいと思っていました。

その後、幸運にもロータリー財団の奨学生として卒業と同時に1975年5月に渡米。3ヶ月間はコロラド州南部のトリニダードという小さな町の英会話学校で履修、9月から中西部に位置するネブラスカ州の州都リンカーンにあるネブラスカ大学大学院に入学、77年12月に無事に経済学修士(Master of Arts)課程修了。カリフォルニアでもニューヨークでもない田舎の州を選んだ理由は日本人が少ないこと、と高校時代に米国ネブラスカ州からQuaker教徒合唱団の訪問を受けて漠然と良い印象を持ったことでした。キャンパスライフは素晴らしく、何もかもが日本とは大違い。学生は親切でオープンで誰とでも公平に接してくれたので本当に楽しい学生生活を送りました。最後の2ヶ月間は親友の家に居候してレポート作成に集中したのも良い思い出です。学業では週に2日は徹夜で勉強という生活で苦労の連続でしたが、頑張った甲斐もあり無事に卒業。当時はロスアンゼルスまでの直行便がなく、ホノルルで入国審査、又、1ドルは308円等々、今とは比べようもない時代でしたが、アメリカでの2年半の生活は楽しく充実したものでした。

帰国後、78年4月に総合商社の日商岩井(現双日)に入社しました。海外に関する仕事をするという二つ目の夢の出発点に立つことが出来ました。世界を相手にする商社マンとしての仕事ですが、私は営業部門ではなく金融分野に進み、一貫して世界の金融市場を相手にしてきました。1987年9月~1993年2月はBrussels (ベルギー)にトレジャラーとして駐在。欧州金融市場では様々な金融商品に投資したり、スワップ・オプション等の新しい投資手法に挑戦したり、目まぐるしく動く国際金融市場を相手に仕事に没頭した時代でした。帰国後は為替業務部で為替そして通貨オプションのディーリングを担当することになりました。月曜日から金曜日まで24時間眠ることのないマーケットが相手で企業戦士としては存分に戦うことが出来ました。平日の睡眠時間は3~4時間という仕事中心の生活を何年も続けた結果、通貨オプションの世界では、” ガンマサプライヤー“の異名を持つに至った次第です。

そして、この部署での経験がそれからの私の社会人人生に大きな影響を及ぼすことになったのです。2000年辺りから個人のFX取引が始まり、私も一から制度設計したりして参画することになります。自分自身でのディーリングではなく、顧客にプラットフォームを提供して取引をして頂くビジネスです。今ではFX取引(為替証拠金取引)として認知されたビジネスです。元来、FX取引は企業や機関投資家等プロが参加する世界であったものが、個人の参入により瞬く間にすそ野が広がり、今や全世界の個人投資家の取引が機関投資家やヘッジファンドを凌駕する規模にまで拡大し、為替相場に大きな影響を与えています。そして今は、ビットコインを始めとした暗号資産に個人投資家が注目しているのはご存知の通りです。時代の変遷と共に新しい金融商品がどんどん生まれてきています。

1995年4月の未曽有の円高(79円75銭)、1997年のアジア通貨危機は1998年にはロシア・ブラジルに拡大し著名なヘッジファンドLTCMの崩壊、日本でも有数の証券会社や金融機関の信用不安が勃発した時期でもありました。2001年NYワールドトレードセンターへのテロ攻撃、2008年リーマンショック、2015年スイス中銀による対ユーロペッグの放棄等々、様々なイベントで世界の金融市場は大きく変動してきました。私自身も21年間の商社人生から1999年に外の世界へと踏み出しましたが、全て為替関係の仕事です。ディーリングに限界を感じて落ち込んだ日々もありましたが、幸運にも新たな出会いがありました。2006年日系の資産運用会社の子会社でFXCMジャパン(為替証拠金取引)でディーリングチームの立ち上げを任されNYに半年、2007年からはマネージメントとしてビジネス全般を統括、2011年米国FXCM社に買収された後はFXCMジャパン証券(日本法人)の代表。2015年1月のスイスフランショックで信用不安に陥った親会社のFXCM社は日本法人を楽天証券に売却。FXCM社はアジアの拠点であるFXCM Asia(香港)も楽天証券に売却したことで、私に楽天証券香港の代表として白羽の矢が立ちました。楽天証券にとっては最初の海外拠点であり、60歳台半ばの私にとっては最後になるであろう大仕事にワクワク感を覚えました。アメリカ・ヨーロッパそしてアジアでの海外生活は学生時代の夢の実現です。

日進月歩の金融の世界でこうして生きて来られたのは、偏にFXに巡り合ったお陰だと思っています。と同時にFXというグローバルな世界で闘うには英語は必須です。今も香港に滞在していますが、広東語は難しく、この歳で習うにはしんどいですが、香港人の多くは英語を話すのでコミュニケーションの問題はありません。人工知能を使っての翻訳機能の拡充でスマホさえあればどんな言語でも通訳してもらえる時代ですが、やはり生身の人間との触れ合いは言葉を通してのものだと思います。世界が狭くなった今、そして色々な出来事が身近に感じられる現代だからこそ、コミュニケーションとしての言語の必要性は益々重要だと思います。

最後になりますが、在学生・就活中の皆さんには夢や希望に向かって努力を怠らない人生を送って欲しいと思います。人生は山あり谷ありです。どんな人生であれ、順風満帆という人生はありません。苦しい時でも自分の夢や希望を捨てないで努力を継続することが大切です。私は英語そして為替という二つの出会いで社会人人生を全うしてきましたが、皆さんにもきっと素晴らしい出会いがあることでしょう。ESS、そしてかけがえのない友人達との出会いを糧にして、前を向いて歩んで欲しいと願っています。健闘を期待しています!

【略歴】
1975年 3月明治大学政治経済学部経済学科卒業
1977年 12月米国ネブラスカ大学大学院 経済学修士修了
1978年 4月日商岩井(株)入社 1987-1993年 N.V. Nissho Iwai (Benelux) S.A.
1999年 8月Chase Manhattan Bank 東京支店 為替資金本部VP
2000年 6月伊藤忠商事 為替証券部
2002年 日商岩井フューチャーズ、2005年ライブドアの買収後、ライブドアコモディティ
     執行役員 オンライントレード営業本部長
2006年 FXCMジャパン入社 執行役員ディーリング部長 2007年 同社代表取締役社長(COO)
2011年 FXCMジャパン証券 代表取締役社長
2015年 4月楽天証券 執行役員
2015年 9月楽天証券香港 代表取締役社長 2021年4月退任し顧問 同年6月退職
現在も香港在住

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