原田 規梭子さん

明治大学英語部のOBであり、現在、東洋学園大学の学長としてご活躍されている、原田規梭子(はらだきさこ)さんにお話しをお聞きしました。

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★プロフイール
1967年 明治大学文学部卒業
1969年 明治大学大学院 文学研究科修士課程修了
1970年 東洋女子短期大学 英語英文科専任講師
1987年 同    英語英文科助教授
1992年 同    英語英文科教授
2002年 東洋学園大学 現代経営学部教授
2005年 東洋女子短期大学 学長
2006年 東洋学園大学 副学長
2014年4月 東洋学園大学学長 就任
専門分野は、英米の演劇。

Q)何故、明治大学に入ったのですか。
原田)
実践女子で、中学・高校と育ってきたのですが。そのまま実践女子大学まで行くことは出来たのですが、高校2年生ごろから自分が変わりたいと思いはじめ、姉が通っていた明治大学を受験しました。

Q)何故、英語部に入ったのですか。
原田)
和泉校舎で、竹葉さん初め、先輩たちの英語部への勧誘が、しつこかった。
800人ぐらい入ったと思う。

Q)英語部でどんな活動が印象に残っていますか。
原田)
1年生のときは、大人しかった。ディスカッションに所属。
それが、2年の時に、3年生の菅原さんから、5大学英語劇コンテスト(FUET)のオーディションを受けろ、と言われた。
当時は、明治、上智、学習院、成城、明治学院の5大学で、年1回英語劇のコンテストを行い、最優秀賞、主演男女優賞、などを競い合っていた。その5大学英語劇のコンテストに、明治大学は、ギリシア悲劇の「メディア」を選んだ。
その「メディア」のオーディションでした。主演である、メディア役に2年生として 自分が選ばれた。ビックリしました。2年生で、主演に選ばれることは、初めてだったので。

それからは、ほとんど毎日夜10時まで、6号館で練習に明け暮れた。

猫背だったので、それを直すために、モップを背中に入れられセリフを言わされました。泣きながら舞台に立っていたのを覚えています。ロンドンの舞台に立った経験をお持ちののベケットさんのお宅に通って、英語の発音を直していただきました。本番の3日前には、疲労と不安で声が全く出なくなり、焦りましたが、ディレクターの菅原さんは「大丈夫」と落ち着いていたのが救いでした。点滴をし、のどに薬を塗って、どうやら声は戻りました。本番では、不思議と、ドキドキしませんでした。カーテンコールの時、多くの拍手に迎えられ、人生で初めてライトを浴びてとてもわくわくしたのを覚えています。
5大学では、総合優勝、舞台効果賞、主演女優賞を獲得しました。
3年生の竹葉さんは 5大学の委員長でもあり、メディアのプロデュサーでもあり、大活躍でした。

この時の経験は、人生においてとても意味のある大きいものでした。
それまでは、人見知りの性格だったのですが、自分の意見をしっかりと人前で話せるようになりました。
原田大二郎(原田さんの夫)さんは、メディアの夫役でした。彼は、芝居に対する思いがとても強く、台本の直しに関しては菅原さんとも大議論を交わしていました。

Q)3年のときは?
原田)
ドラマに誘われましたが、やりませんでした。
ディスカッションで関西遠征を経験したリ楽しかったですよ。でも心は文学の研究へ少しずつ向いていました。あの当時は、セクションはありましたが、ドラマは、ドラマだけやるとか、ディスカッションは、ディスカッションだけやるようなことはなく、セクション間の交流が活発で、他のセクションの活動も積極的に参加していました。

Q)女優をやっていこうとか思いませんでしたか?

原田)
舞台女優をやってみたいという気持ちはありましたが、文学部のシエークスピアがご専門の先生だった橘先生との出会いが大きな意味を持つようになり、演劇の研究に興味がわき、次第に研究室に入り浸るようになりました。
同期の友人山崎千鶴子さんは、女優になりました。彼女と50歳になったらメディアの舞台であるギリシャに一緒に行こうと約束をしていたのですが、千鶴子さんは病に倒れ、その約束は果たすことができませんでした。後年演劇研究するようになって、学生の時は、「メディア」の深い意味は、よく分っていないままに、演じていたように思います。

Q)大学卒業後は?
原田)
明治大学を卒業して、明治の大学院文学研究科に入りました。
大学院を出て、明治高校で教えるはずだったのですが、女性の教員はとらないということになり、困った私は大二郎さんのアドバイスに促され、東洋女子短期大学学長に手紙を書き、助手として雇っていただきました。
その年の秋から教壇に立ち、翌年、英文科の講師になりました。初めて、教壇に立ってみてあのメディアを演じた時のような興奮をおぼえ、教えることの緊張感が大好きでした。

教えることが「天職だ」と思いました。

その後は、子供が出来たり、いろいろとあったが、長い本格的な教鞭生活の道に入った。
東洋女子短期大学の学長のあと、東洋女子短期大学が閉校し、東洋学園大学に一本化して、副学長、2014年から、学長。

Q)今の、大学の課題は?

原田)
もう一方通行の授業は、もたなくなっている。
自分たちが受けた教育とは全く違う教育方法、アクティブラーニング、ディスカッションやディベートなどを取り入れた工夫をしないと学生たちの自主性を育てることができません。
学生たちがお互いに学びあう「学びのコミュニティ」を作る必要があると強く思っています。
学生のモチベーションを向上させる工夫をしないとダメだとおもいます。若い人には大きな伸びしろがありますから、そこに気づかせる教育こそ今必要とされているのだと思います。
教授たちの意識改革が必要なのですが、なかなか難しいです。全学で、授業改革を一挙にやるのは、ムリだとわかりました。教授たちには、賛同しない人も多く、まずは、やれるところから始めました。

1年のときは、まず初年次教育として、自分は何者かを考えさせ、グループを作って自己分析させる。仲間同士の信頼関係ができるとみな自己開示するようになるのです。そして今何を勉強したいのかを考えさせ、アカデミックスキル・勉強する方法を身につけさせます。目標を持たせ、人生設計をさせます。そこから専門課程に入っていきます。

今は、一つの方向に、みなが向いてくれるように変革の最中です。
学生は、とても素直です。
1列目がうるさいと、キッチリ叱ります。今の学生は、叱られた経験があまりないのです。授業中に、スマホを観ていたら、没収します。

明治大学は、組織があまりに大きいから、大学の改革を進めていくのは大変でしょうね。
納谷学長の時に明治は大きく前進したと思います。それでも課題はたくさんあると思います。

Q)趣味は?
原田)
今は、何をやるにも、時間がない。毎夏ロンドンに芝居を見に行っていたのも今は中断。料理も好きですが、お客さんをおもてなしする気力が減少してます。映画も好き。
21:15からのレイトショーを、二子玉川によく見に行きます。
とにかく教えるのが、好き。

Q)学生へのアドバイスは?
原田)
私たちの時は、一体感があった。
ディベートセクションでなくても、1年の時に、ディベートの大会に参加して優勝したりもしました。ディスカッションの関西遠征には、他のセクションもどんどん参加しました。現在のような、縦割り、セクション別での行動だけでは、活性化しないと思います。

Q)OB会の印象は?
原田)
OB会に出てみて、とにかく女性が少ない。
男の会。
男の世界だなあと感じた。
女性が出やすい会になってほしい。
女性の役員もいない。

Q)これから やりたいことは?
原田)
今後、この大学が将来しっかり生き残る基盤を作りたい。
学生は、金銭的に苦労している。
それでもこの大学に入ってよかったと思ってもらいたいのです。学びを知恵に変えて、ちゃんと就職できる出口対策をしっかり作りたい。
大学に応募してもらう募集方法、しっかりした教育、就職対策などを視野に入れ、一人一人を大事に育てたいと思っています。

場所 文京区本郷にある東洋学園大学学長室にて。
聞き手 郡司強三(1966年卒)と柴田吉彦(1982年卒)。

■編集後記

今回、原田規梭子さんにインタビューして、深い感銘と共感を受けました。
なんといっても、原田さんの大学教育・改革への深く熱い思いを、本音で語っていること。
これが、ビシビシと伝わってきました。
まだまだ。語り尽くせぬ思いを感じ、時間が許せば、もっと原田さんのお話を聞きたかった。
初めて教壇に立ったとき、「天職だと思った」という言葉には、ぐっと来ました。

明治大学2年の時に、主役「メディア」を演じた経験から、原田さんの人生が、 大きく変化していったこと、人生における「めぐりあい」というものの不思議さを感じました。

今後も、先輩OB訪問の旅を続けていきたいと思います。

柴田吉彦
(1982年文学部仏文卒。現在、ラジオ日本にて、ラジオの音楽番組のプロデューサーなどをやっています。)

※所属およびインタビュー内容は、取材当時のものです

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